第五回研究公演「定家」を振り返って
平成30年7月16日(月祝)於:十四世喜多六平太記念能楽堂
炎天下気温36度にまで達した猛暑だった。能楽堂の中は空調が効いていても不思議と身体は分かるらしい。何か息苦しく、喉はカラカラになる。私でさえそうなのだから、八十路を越える方々のご負担は”かくや”と思った。このような時季にこのような大曲をさせて頂くのは、演る側も見るお客様にもかなりのご負担と、まずお礼と共にお詫び申し上げたく思っております。
野村四郎先生もここの所のご多忙とあいまって申し訳ないことでした。私自身は、5回目の一区切り、最後のその成果として、現れなかったら意味がない!この研究公演を始めて足掛け10年の結果とならなくては、何のためにやってきたのか…と思ってしまう。それは嫌だという強い覚悟があった。それは、日を追うごとに鋭利な刃物のような気持ち、熱い鉄を体内に持っているような自分を感じていた。だから逆に、常にはやる心を冷めさす氷水をかけ続ける、そんな日を過ごしていた。つまりシテをやるのではない。他の7人に対する責任、一人では負うことができない責任であっても、地頭に全責任があるという、能の地謡というものの在り様。それは分かっていることだからこそ、それならやってやろう!と思ってやってきた。数年、数ヶ月をかけて。それは具体的な定家の地謡の稽古。私にとって、4月から7月まで合計17回に及んだ稽古を通して、やっと少しだけ見えてきた方向性、けれど、申合せ、本番と出演者全員が揃っての稽古は1回だけである。能の慣習として、又、能という舞台芸能の特殊性として、そうなのである。当然であるが、立って演じて下さるシテ、ワキ、打って下さる囃子方、その生の演技と生の動きと音、それらが有ると無いとでは、かくも違うのかということを、地頭として初めて感じることができたのは、今回何ものにも替え難い収穫であった。このような内的に強く謡わなければ、少なくとも曲にはならないような曲を動き無しで稽古をすることは、本当にキツかったのだ。シテの動きを頭の中で考えながら、つまり、仮託するものが目の前に耳にも入ってこない中で謡うことが辛かった。16回やった稽古の間、ずっとそのような感じだった。けれども、6月28日の野村四郎先生に開いていただいた稽古は、後のワカから立って下さった!心の中で、その日初めから立って下さることを期待していたのだが、残念ながら、それはなかった。しかし後になってワカから立って舞ってくださったのだ!嬉しかった。すると、その時に、自分がとてもある、余裕と喜びのような、自分一人が格闘していた感覚だったのが、シテが立って舞うその姿を見つつ、謡うことが自分にもたらした変化に、私は正直驚いた。こんなにも違う感触かと。これが寿夫師八世銕之丞師よく言っていた「地謡というものはシテの身体を通して表現するものなのだ」という言葉の意味が、初めて身体で納得した。貴重な経験として自分の身体にしっかりと残るであろう有難く嬉しいことだった。
地謡をがんばったことだけで、この大曲「定家」が成り立つ訳がなく、ともかく、ご覧になった方々が、今回の定家は一体全体どうだったのか?それをぜひ伺いたいと思っています。私が一つの仮説(?)として考えると、シテが男性の役者で式子内親王を演じている時に、それを支えるのが、女性の地謡であることの交差する面白さがもしあるならば、又それが、何か舞台上に垣間見えたなら、一つの視点として、少なからず成功したと、全くの我田引水、自己満足の言葉として諸々の反省とともに言わせていただきます。
当日パンフレットの中でも触れましたが、今後も、女の人達で地謡稽古は継続していくつもりです。あとは、それぞれの自己の問題でもあるので、日常的に自覚を持って自分の稽古を舞台を遂行して行く他にないと思っています。