「檜垣」を終えて part2

前回の続きを書かせていただきます。

昨年12月24日に第二十回鵜澤久の会二十周年記念において「檜垣」を披かせていただきました。

このような大曲を披かせて頂いたことは、今の私の年齢などをかんがみ、大変有難い事だったと思っています。

もし、「姨捨」と「檜垣」といわれたなら、私は「檜垣」はやれたらやりたいと、ずっと思っていました。私の父が七十七歳で独立五十周年の記念として、大変な思いで「姨捨」を披いた時のその舞台は、人間のいやらしさとかそういうものが全部無くてこうこうと照る月光の元、一人捨てられた老婆の何をするでもなくそこに存在しているだけの透明な世界を私は見ました。私はこれが「姨捨」という曲なのだろうと思いました。そして私はというと、寿夫先生の言われた「野宮」→「定家」→「檜垣」というラインの曲たちの方に心引かれるものがあるのです。人間の深い思い、妄執、忘れようと思っても忘れられない、逃れたくても逃れられない、そして八世銕之丞先生から稽古して頂く度毎と言ってもよい位に言われた女の業、女の性(さが)そういった事象に根ざした曲が私は好きなようです。「求塚」しかり。まあこれは本当に救われない悲しさを感じるこわい曲ですが。

そしてこの「檜垣」の演能については二、三年前から考え始めお腹の中で貯めに貯めていました。具体的には一年前から少しずつ稽古を始め、春、夏、秋と過ぎて行く内に自分の作っていった方向性のようなものが、その間の二回の稽古、下申合せ(大曲の時は、本申合せの前に一度申合せをします。そのことを言います)を通してはっきりして来ました。そして十一月十七日、十八日とこの曲のご当地である熊本の白川を訪ね、帰京して稽古をしたら、自分の中で何かが変わっていることに驚き、困惑しました。それから毎日の稽古の中で何かを取り戻そうとしましたが、不思議なことに元に戻らない自分がいました。私はもうあとはこの自然の流れに身を任すしかないと思い、当日を迎えました。

多くの皆様から、当日配らせて頂いた感想ハガキにご返信を頂いたり、お手紙、メール、お電話様々な舞台の印象をお聞かせ頂き、あらためて御礼申し上げます。

なかなか舞台で演じていると外側からどうだったのかは当然わかりません。皆様のご印象を嬉しく有難く思っております。

今、180度違う曲「高砂」稽古していて、つくづく能は面白いものだと思います。「檜垣」も「高砂」も同じ世阿弥がつくった曲と思うと、本当に世阿弥の天才ぶりに驚嘆してしまいます。また、今あらためて、世阿弥の身体論を読み直して、これが六百年以上前に書かれた論であることに又驚愕します。そして今、「高砂」の稽古と、宮澤賢治の「春と修羅」の稽古を同時進行していると、これ又、賢治生誕百年を経て、今、賢治の言葉の一つ一つが、今生きている自分の体から発せられた時、又それらが生き生きとしてくる、そんな作業をしています。三十七年の生涯の中で挫けながらも懸命に生きた賢治の力を具現化できたら面白いと思っています。

一方、生きとし生けるものに与えられた生命の息吹エネルギーの発露を「高砂」で舞台上に見せることができるよう、力一杯がんばります。

それぞれご覧いただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

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